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90年から94年にかけて、日本に留まらず、海外でも多くのBNR32がシリーズチャンピオンを獲得するなど活躍をしていました。このページでは、その海外での活躍を一部ご紹介しています。
AUSTRALIAN TOURING CAR CHAMPIONSHIP
グループA規定で競われたこのレースは、90年4戦からオーストラリア日産モータースポーツより、エースドライバーであるJ.Richardsと開発ドライバーであるM.Skaifeとの2台体制で出場。開発期間として参戦したにもかかわらず最終戦で優勝。翌91年は、7勝を記録してシリーズチャンピオンを獲得しました。
BATHURST 1000km RACE
バサースト1000kmレースとは、1周6.213kmの低中高速コーナーのあるテクニカルなコースを161LAP(約1000km)で競われたレースです。このレースにオーストラリア日産モータースポーツから参戦のカーナンバー1は、J.RichardsとM.Skaifeコンビ。GT-R投入初戦の90年は、18位という結果でしたが、91〜92年は連続優勝を獲得しました。
BRITISH Group N SALLON CHAMPIONSHIP
91年、イギリスのMatt Neal選手がAクラスで6勝を征し、シリーズチャンピオンを獲得しました。このレースでは、2台のBNR32が参戦していました。
DAYTONA 24 HOURS RACE
94年2月5日、1周5.73kmのデイトナ24時間耐久レースに、粕谷俊二がアメリカのレースに初めてGT-Rを持込みました。出場カテゴリーは、エントリー35台と、最も激戦の排気量3500cc以下のGTUクラスです。ドライバーは、粕谷俊二/中川隆正/スティーブン・アンドスカーの3人。ライバルには、ポルシェ911RSRやRX-7等です。このレースのベース車両は、徳大寺有恒が日産から特別に借用したN1仕様をウインドーネットなどボディワークを少々モディファイ。その他、車両規定でリストリクターを装着。これによりパワーは10%ほどダウンして最大380馬力程でした。これは大きな影響はなかったようですが、このレース以前のオーストラリアなどでの活躍が目立ってしまい、GT-Rにとっては不利なレギュレーションを設定され、苦戦を強い入れられてしまいました。
予選1回目(2月3日)、新品エンジンと新品タービンでしたが、原因不明のタービントラブルにより出走できず、予選2回目(2月4日)に予選通過を掛けることとなりました。他車が順調にタイムを出す中、あとのない状況で粕谷選手は2'06"121というタイムを叩き出し総合45位、クラス21位で無事予選を通過。
決勝は、途中、ガス欠でピット入口付近でストップしたり、ドライブシャフトのトラブルで1時間以上のロスもしました。またオーバーステアにも悩まされ、急遽出走時は付けていなかったリアウイングを付けるためのピットインもしました。その他にも各部に不安を抱きながらの走行でしたが、出走してからの24時間後、無事BNR32は粕谷選手のドライブで無事チェッカーを受け総合20位、クラス10位という記録で完走を果たしました。これまでのGT-Rとしては、低い順位ではありましたが、プライベートチームであり、GT-Rで初めてのバンク走行や厳しいハンディーキャップを背負いながらの参戦を考えれば、クラス10位ということは、素晴らしい結果ではなかったのではないでしょうか。
ちなみに、今では市販車の標準仕様となりつつあるHIDヘッドランプですが、10年以上も前のこのレースで、既にHIDが装着されていました。
ITALY TOURING CAR RACE
MACAU GRAND PRIX GUIA RACE
1990年11月25日、F3の前座レースとして1周6kmのマカオグランプリレースで、常勝のBMWを打ち破るため、長谷見昌弘選手がGT-Rで参戦。予選では2位以下を3.3秒引き離し、決勝ではスタートから2位のBMW M3を驚異的速さで30秒も後方に引き離して見事優勝。
前年の、あまりの速さにレギュレーションが見直され、翌年のレースでは、140kgのウエイトハンディを課せられることとなりました。これにより、前年の速さはなく、予選2位の座を獲得したが、苦戦を強い入れられ、なんとか4位という結果を残すに留まりました。
92年、この年はウエイトハンディを90kgに軽減されましたが、残念ながらトラブルによりリタイアという結果に終わりました。
NISSAN MOBIL 500 WELLINGTON
NURBURGRING 24 HOURS RACE
1990.06.28
PIKES PEAK INTERNATIONAL HILL CLIMB RACE
92年からベストモータースポーツが、完全プライベーターチームとして参戦しました。ドライバーは、亀山 晃選手です。初参戦のこの年は、オープンクラス2位という結果でしたが、翌93年は、11分42秒95というオープンクラスのクラス別コースレコード(=クラス優勝)を残しました。
後にニスモの支援を受け、96年7月には、BCNR33(400R)を投入し、自己記録更新を狙って再チャレンジ。しかし、クラス優勝は勝ち取ったものの、タイムは11分44秒04と自己ベストを塗り替えることはできませんでした。
98年も挑戦しましたが、またしてもクラス優勝は勝取ったものの、前回同様、路面状況に恵まれなかったこともあり、11分47秒04というタイムで自己記録更新はできませんでした。結局、3回の参戦で全戦においてクラス優勝は獲得したものの総合優勝はできず、またタイムはBNR32で参戦した1回目のレースを更新する事はできませんでした。
SALOON CAR CHAMPIONSHIP
グループN規定で競われたこのレースでは、ヤンスピードレーシングから1台のスカイラインをキース・オドールに託し全戦参加し、9戦で優勝しました。
SPANISH TOURING CAR CHAMPIONSHIP
SPA FRANCORCHAMPS 24 HOURS RACE
1990.07.24
1991.08.04
1992.09.27
SPANISH TOURING CAR CHAMPIONSSHIP
日本では情報も少なく、あまり知られていないレースですが、L.P.サラのドライブにより92年にも表彰台に立ち、翌93年には2位のBMW M3を25ポイント差の134ポイントで抑えシリーズチャンピオンを獲得しました。
WRC Tour de Course
90年、西山 寛選手は純正カラーのジェットシルバーと思われるシルバー塗装にスポンサーステッカーを貼って、全線ターマックのWRCに1年間参戦した。しかしながら、Gr.Nクラス規定の吸入空気規制装置(36mmのリストリクター)を付け、さらに西山選手の予想に反して、ツインターボのGT-Rは、タービン1機あたりにも28mmという吸入制限もされてしまいました。このような規定では、とてもレースに勝てるようなパワーは持ち合わせてなく、結果は無残なものでした。これにより、その後、BNR32は二度とWRCに姿を現すことはなかったのでした。
update : 2003-09-01 / 2005-03-30 |
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